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『A』はアジアのA⑧久米とネット

  2005/6/257月 7th, 2022コメントなし

さて、6月22日あたりで打ち切りが決まり、6月26日の放送を持って終了する「A」の話題を、しつこいだけどもう少し続けたいんだが。
前回はリストを作り*1、内容を中心に考察してみた。見ての通り、最初からややズレてる出発だが、まだまだ主旨っぽいものがなんとか見えて演出の仕方が悪かったと言えば済む状態だ。第四回以後(テコ入れ対策実行した後)「アジアの知恵(?)は日本に役立つ」と「何でもいいから視聴者参加」のような不可解な方針が加わり、内容面はこれでさらに急失速したということ。
そして今度は内容以外のところを私なりに*2小林よしのり氏に見習ってゴーマンに語ってみたいと思う。
まず言っておきたいのは、つまらない番組を作るために、番組を作っている人はいないのだ*3。番組がつまらなくなっているのは、ささやかな不備や捻れが少しずつ蓄積して、最終的には始末できない大きな歪みが生じてしまい、机の上では面白くなるはずのモノでも、自然そして合理的につまらないモノになっていく、ということだ。要は共同作業で何かが失敗が起きた時、往々にして一人や二人のせいではなく、責任者を探し出し戦犯として縛り上げるより、不備や捻れの在り処を究明し、次の仕事ではそれについて細心の注意を払うのが大事だ。やや理想論も混じっているが*4、制作のプロセスとしては踏み外してはいないと思う。よって、ここも試しに捻れの要因を考察してみたいと思うだけで、誰が悪いのかは文章の趣旨ではないし、それを突き刺すつもりで書いてはいない。
「A」の失敗から私が注目すべきだと思うのは、内容が如何こうする以前に、その久米宏とネット対話システムの使い方がおかしいということだ。

久米宏ラリー・キング

久米氏は「ニュースステーション」のキャスターとして20年近くやってきたもので、ニュースキャスターのイメージが強いが、もともと「ぴったしカンカン」や「TVスクランブル」などのバラエティ番組の司会者にもこなせる人である。左翼か右翼かなどの立場を差し置いて、TVの世界で何十年もやってきた久米宏は、確かにコメント力があり、アドリブが利く、また場を仕切る気迫を持つ、日本では稀に見る能力が備えている司会者であると、私は思う。そうだな、「日本のラリー・キング」になれそうな人は、久米宏みのもんた二人ぐらいしかないじゃないか、という感じだった。
ラリー・キングと言えば、アメリカでは「トークの帝王」と呼ばれ、政財界から芸能界まで、毎日タイムリーなゲストを招いてトークをする、人気番組「ラリー・キング・ライブ」の司会者である。その「ラリー・キング・ライブ」というは…まあ、分かりやすくて言えば徹子の部屋」のスーパーバージョンというところかな。そして「ラリー・キング・ライブ」の見所と言うと、単なるインタビューが行われているように見えるが、本当はゲストとラリー・キングの攻防で、「言ってはまずいじゃないの?」な本音をゲストから聞き出す、「聞いては失礼じゃないの?」な質問でさりげなく聞く、そんなラリー・キングの巧みな質問術に、人々が魅了されているのだ。
ニュース関係の仕事歴が長い分、久米宏の方がずっとラリー・キングっぽいかも知れない。それだと分かることは一つ、久米宏が「A」での扱われ方は、全くの間違いでしか言いようがないことだ。ラリー・キングは伊東家のパパにはなれない久米宏も然り。*5
ニュースステーション」の20年で、久米宏はもうトリビアや裏技とかを聞いて「ふむふむ納得」という役割では当てはめられないキャラになり、視聴者の方もそんな久米宏を見ようとは思わない。はっきり言ってアンチ久米の人だってそんなの見たくない。皆が見たかったのは、安全地域から踏み出し(踏み損ない?)、それ聞いちゃ失礼無礼まずいだろうという質問を、失礼無礼すれすれで聞く、失礼無礼すれすれの笑みを浮かぶ久米だと思う。「なるほど、そういうことか」とぽんと掌叩くキャラクターは、久米宏には似合わないし、誰も見たくない。
もし「A」は最初から司会者を久米宏と決まっているとしたら、その企画の組み方にはどこか間違っていたと、断言できる。

録画かどうかは問題じゃない

では、一体どこか間違っていたのを、じっくり考えてみたいと思う。

(「A」の視聴率の)低迷の最大の理由として、関係者が口を揃えるのが「録画」であることだ。初回分が収録されたのは放送の約一ヶ月前。インターネットでアジア各地と結ぶため、各国の回線環境によるトラブルを避けて録画にした事情もあるらしいが、理由はそれだけではない。
週刊文春/2005年5月26日号
 「久米宏に悩ますあのオンナ」より

記事は「どこからでもリアルタイムで結べるネット対話システムを持ちながら、なぜか録画して放送の形式を取る『A』→録画は視聴率低下の原因だと関係者が指摘→録画にしたのは週末地方コンサートへ行く松浦亜弥のせい→松浦亜弥は全ての元凶」みたいな論点を取っているが、よく考えてみればそれは詭弁だと分かる。なぜならば、「どこからでもリアルタイムで結べるシステム」を持っているなら、たとえ松浦亜弥が週末ベトナム行きコンサートをやっても、そのネット対話システムを使えば、生で出演するのは何の問題にもならないはずだ。つまりこの記事はフェイントで、生放送でやれないのは、別の原因があり、しかもそれがかなり言いにくいことかもしれない。
そもそも「生放送」と「録画」はどう違うのだろうか?
そりゃお前違うよ作り方から何もかもと、テレビの詳しい方々がすぐそう言うかもしれないけど、作り手のやり方がどう違えようと、テレビの向こうに番組を眺める視聴者から見れば、実はそんなに違わないんじゃないかと思うが。
(またちょこちょこ補完します…)

><

*1:もともと13日までの内容でいいと思っていたが、打ち切りが決定したから、最終回までのデータを追記していくことにした。

*2:テレビ業界のことに関しては素人なのでそんなに詳しくないからね。詳しいのが深夜枠アニメの仕組みぐらいかな。

*3:これは昔、アニメ制作時代の上司である先輩Iさんの言葉から少し言い換えたもの。原文は「面白くないアニメを作るためにアニメを作っている人はいない」。Iさんは制作としての心得をいろいろ教えてくれて、今でも感謝している。

*4:だってつまらない仕事をしてしまった人々は、やはり一人の戦犯が欲しがるし、不備や捻れの在り処もそんな簡単に特定することができないだろう。また、たとえ究明できても、次の仕事ではメンバーが入れ替え、新たな問題が起こるのが普通だが。しかし、これらの負の要因も含め、正論を踏まえてプラスに働かせるこそ、制作の使命だと思うが。

*5:逆にみのもんたならできそうだ。

elielin

数年前は東京でアニメ制作進行をやってた台北在住の台湾人編集者です。おたくでもギークでもないと思うけど、そう思っているのがお前自身だけだと周りから言われています。時々中野区に出没。

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