実は日記なんかつけている場合じゃないが、一応記録した方がいいと思う。おじいちゃんが亡くなったことを。
もともと肺が弱かったので、三週間前は気管の感染で入院していたが、二週間でかなり回復を見せ、9日はその90歳の誕生日を祝う盛大な祝宴にも参加し、すごく喜んでいた。今日はよく食べ、声も大きくなり、とても元気そうに見えたが、夜九時頃、何の予兆もなく、いきなりこの世を去った。心不全だった。*1
会社で電話を受け、そのままタクシーで病院へ直行したが、最後を看取れなかった。頭の中はなぜか先日の祝宴のことや、雑誌のスケジュールとかいっぱいで…ショックというより、どう動揺すればいいのか分からないほど、動揺していたかも。叔父たちや新竹から駆けつけてきた親のように泣けず、遺体を面にしても、その場でなぜか微妙な冷静さを保ち、皆を慰めていた。
遺体運搬のための寝台車が来る朝六時に合わせ、風呂でも入ろうと一回自宅へ戻ってきた。モニターを向かってこの文章を打ちながら、やっと涙がこぼれてきた。
初孫の私を一番可愛がってくれて、ガキの私のわがままを、いつもやさしく受け入れるおじいちゃんと、こんなあっけない形で別れを告ぐなんて、本当に心外だった。
90歳はかなり長寿ではあるが、もうちょっと長生きしてほしかった。
明日の夜も見に行って、「おやすみ」と言ってあげたかった。
再来年あたりに、私の結婚式にも参加して、祝ってほしかった。
干支は同じなので、またいっしょに辰年を迎えたかった。
でも、もうできない。
…もうできないけど、私はおじいちゃんのことを絶対に忘れないよ。
おじいちゃんが、大好きだから。
この場を借りて、心からおじいさまの冥福を祈ります。
ご哀愁さま。
長輩臨走之前,回憶起的是最美滿的生日宴會,想著的是與後輩的美麗約定,我們相信跟著他走的不會是遺憾.
所以,哭也好,傷心也好,懷念也好,曾經存在的証明便靠著我們傳承下去…回憶他的臉,他的一舉一動,他的聲音,他的話,然後不只是不忘記,還要傳承下去,讓自己的後輩也曉得,”曾經有一個人,對我很好;曾經有一個人,我好喜歡他.那是我的爺爺”
–願我們都還有勇氣走向前–
ありがとうございます。